乳がんから脳腫瘍転移、育児と母の介護 記録

私の母は2017年7月現在、終末期真っ只中にいます。孫も二人生まれて、幸せな老後生活を送る予定でした。私も実家パワーを使ってのんびり育休&ワーママライフを送る予定でした。でも、病魔はそれを許しませんでした。

高校生の時、母の乳がん発覚

私が高校1年の時、母の乳癌が発覚しました。祖母の話から、発見される1年前から「なんかしこりがある気がする」と言っていたそうですが、小学校教師の仕事が忙しく、それを言い訳に検査を先延ばしにしていたそうです。そして1年後、ようやく受けた検査で末期に近い中期であると分かりました。

高校1年だった当時、父から「お母さんが死んでしまうかもしれない」と告げられたものの、これまでと全く変わらない母の姿からは全く実感が湧かなかったのを覚えています。

母はすぐに癌摘出の手術を受けました。大きかったのでもちろん乳房も摘出でしたが、再建はしませんでした。一年仕事を休職し、抗がん剤治療を始めました。髪や眉毛、まつげも全て抜けてしまいましたが、抗がん剤の副作用は全くなくただ楽しい休職ライフを満喫し、遊びまわっていました。

癌に対する恐れも、家族の中で薄れていきました。

社会人になってすぐ、脳への転移発覚

乳癌が発覚して6年目、本当に何も起きませんでした。もう何の心配もなくなったと思っていました。でもそれは本当に一瞬でした。

母の様子がおかしくなり始めたのは、今思えば大学4年の半ば頃から。物忘れが多く、さっき聞いたことをまたすぐに聞き直します。「今日は夜ご飯いるの?」という質問を30分おきにされたり。職場でも何か様子がおかしいと、『物忘れ外来』の受信を勧められました。そして病院に行くと、物忘れではなく『脳腫瘍』であることが判明。6センチの大きさの脳腫瘍ができていました。乳癌からの転移です。

まさかそんなところに転移していたとは。転移が分かったのは私が就職した4月でした。すぐに切除の手術を受けることに。宿泊での新人研修の最中でしたが、特別に施設を抜けて手術明けの母の見舞いに行かせてくれた会社には感謝しています。

全脳放射を行い、二度目の抗がん剤治療に入りました。ハーセプチンも。母は2度目の休職。今回も副作用もなく、「家を建て替えるんだ!」という長年の夢を今こそ実行に移そうと、住宅展示場を歩き回り設計図もたくさん書いてもらって充実しすぎている日々を送っていました。

一方の私は、”癌の転移”という事実を重く受け止め、「早く孫を見せないと!」と一念発起。元々結婚願望は強い方だったのですが、状況が状況だったのでここぞと婚活。結果、職場の先輩とお付き合いでき、色々ありましたが無事に結婚。周りには電撃結婚でかなり驚かれました。

一人目妊娠と同時に告げられた余命半年の宣言

新婚旅行から帰ってきてすぐに妊活、若さもあってすぐに授かりました。母もまた職場復帰し、超がつく多忙の毎日を送っていました。「孫が見られる、お世話しなきゃ!」と、ルンルンで過ごしていた時、乳癌発覚から受けていた毎年の定期検査で骨髄への転移が分かりました。

脳から伸びている脊髄、もう癌細胞で真っ白。神経がふさがる直前。お医者さんは他人事のように「あと半年かな~」なんてシレッと余命宣告。出産予定日までまだまだ6か月。母も家族も頭真っ白。特に母の心境は計り知れません。娘の私ですら母がいなくなるかもしれない、という現実を受け入れられずに夜な夜な涙を流しながら現実逃避したくてもできない。母はどんな気持ちだったのか。

母は小学校教師で、祖母の助けを借りて子ども3人育てながらバリバリ働いていました。「孫の世話はまかせて!」と、祖母と同じことを娘の私にもするんだと意気込んでいて、それが実現されようとしている最中での突然の余命宣告でした。

母は今回は速攻で仕事を辞めました。三度目の抗がん剤治療。最初、風邪のような感じで体調を崩していましたが、すぐに回復して普段通りの生活を送っていました。

癌が消えた!

余命宣告を受けた半年を過ぎても元気でした。私は無事に第一子の長男けんけんを出産。母が少しでも孫と過ごせるようにと、父が私の住居のそばにマンションを購入し(誰にも相談なく、勝手に突然!母は怒っていましたが、グッジョブでした)、里帰りはせずに週3,4で母が私の家に来て夕飯まで一緒に過ごして夜は自分のマンションに帰っていく、という生活でした。

そして子どもが7か月になったころ、定期検査を受けると・・・脊髄にびっしりとあった癌がきれいに消えている!母の「どやーっ!」って嬉しそうな様子は忘れられません。仕事を辞めてストレスが減ったのもよかったのかも。でも、これは抗がん剤の落とし穴でした。一瞬消えたと見せかけて、今までの倍もの癌を作り出していたのですが、それが分かるのはまた2年後でした。

ともあれ、その時はただ癌が消えて治ったように見えていて、母も楽しい孫ライフを満喫。ついでに「妻の介護をする」と言って仕事を辞めてしまった父も孫ライフを満喫していました。

二人目妊娠のとき、ついに脊髄が塞がった

それから3年、私は二人目を妊娠しました。母の脊髄の癌も消えたと、二人目の育休生活プランを色々と楽しく練っていました。母も、「私が孫ちゃん見ててあげるから料理教室でも行ってきなさい!」とノリノリ。

ですが、妊娠4か月の頃、急に母が「下半身に違和感がある」と。その違和感は恐ろしいスピードで広がり、あっという間に歩けなくなりました。わずか3週間で。私が母が歩いているのを最後に見たのは、クリスマスにサンタクロースの衣装を来て、息子にクリスマスプレゼントを渡している時でした。歩いている、といっても椅子や柱につかまりながら、いうことを聞かない足をなんとか動かして前に進んでいる姿。辛くて写真も取れませんでした。

歩けなくなってからはトイレの介護は父が行っていましたが、それもすぐ終わりました。癌が脊髄に転移して、脊髄が埋まってしまうと排泄も自力ではできなくなってしまうんですね。それに気が付かず3日ほど過ごし、トイレには座らせてもらうものの出ない。父が手探り状態でケアマネさんとつながり、助けてもらいました。

母の介護と妊娠ライフ

父がすぐにケアマネさんに相談したのが、本当に助かったと思います。ケアマネさんってすごい。年末だったのにも関わらず、すぐに車いすが手配され、排泄のためのバルーンカテーテルをつけてもらったり、介護用ベッドが搬入されたり、ヘルパーさんも来てもらえるようになりました。デイサービスにも週二回通えるように。

この頃、父は一度は辞めた職場に嘱託のような形で復帰して働いていましたが、年明けからは母の介護も家事も一度に担うことに。全くやっていなかったわけではありませんが、一度に担うのは大変そうでした。私は妊娠中期~後期あたりでまだ働いていましたが、少しでも父の負担が軽くなるように、また突然歩けなくなって落ち込んでいる母を少しでも励ますことができればと、デイサービスに行った日は私の家に帰ってきてもらうようにして、週二回の夕食を我が家で取ってもらうことに。

歩けなくなって落ち込みまくっていた母ですが、久しぶりに長男けんけん(当時3歳)とカルタで遊んだり、絵本を読んであげたりして、「久しぶりに笑ったわ」と楽しそうでした。私はお腹も大きく体力的にかなりしんどかったですが、母が喜ぶならばと頑張っていました。

出産と育児の両立

母が歩けなくなって半年弱、私はようやく二人目を出産しました。けんけんの出産時には、母がずっと付き添ってくれていたのですが、今回はそれができず、母は自宅で車椅子のまま。どれだけ悔しかったろうと思います。

無事に赤ちゃんが生まれて私は帰宅。今回は手伝いもなにもありません。けんけんの保育園の送りは夫、お迎えは父(けんけんの祖父)とファミリーサポートを使いましたが家のことは出産前と変わらず一人でこなしていました。正直、辛かった。骨盤ガタガタの中、掃除はおろそかにしつつも洗濯物関連や長男と赤ちゃんの世話、ご飯の用意。そして母のケア。

でもこの時頑張ってよかったと思います。それまで超がつくほど活動的だったのに家での車椅子生活を余儀なくされて落ち込みまくっていましたが、孫を抱っこしたり遊んだり、楽しい時間を過ごせたので。

産褥期が明け、私の体力も十分に戻った頃、母がデイサービスに行かない日のお昼ごはんも私が作りに行くようにしました。

夏、母は熱中症になり救急車で搬送されたこともありましたが回復。歩けなくなって1年、定期的に友人も遊びにきてくれて、車いす生活でそれなりに楽しく生活していました。

ついに寝たきりに

熱中症で入院したのを境に、母の食はどんどん細くなっていきました。そして、歩けなくなってから1年3か月、脳にまた新しい腫瘍がいくつか出来たと分かり、ガンマナイフを行うことに。このガンマナイフを第二の境に、本当に食べられなくなっていきました。ガンマナイフの副作用に脳のむくみがあるようです。その副作用なのかどうかは分かりませんが、車いすに移乗してもうつむいて寝てる(?)ような姿勢でいることが増えてきました。

私の家に夕飯を食べに来ても「ちょっと休憩させて」と俯いている。ついに、車椅子にも乗らなくなりました。栄養が入らないから元気が出ないのか?と、お医者さんと相談して、栄養剤を点滴できるように胸に点滴のポートをつけてもらうことに。真央さんが最後家に帰宅する前に手術でつけてもらっていたものと同じやつです。

点滴のポートをつけてもらって一泊入院している時は、うつらうつらしながらも、会話できていました。

栄養剤の点滴を受けるために、施設へ入所。二週間ほど点滴を受けて、回復したら帰宅してまた今まで通りの生活を送る予定でした。でも、母はその施設に入った時、自分で「もう食べたくないんです」とお願いして何も食べなくなりました。

点滴のおかげで、お尻のあたりにできていた褥瘡はきれいに治りました。でも母が前のように元気になることはありませんでした。途中、お茶を飲んでみようとする時期もありましたが、点滴を開始して3か月、目もほとんど明かなくなり、寝ていることがずっと続いています。

ガンマナイフの副作用で脳がむくんだからなのかは分かりません。新しい腫瘍ができているのかもしれません。不幸中の幸いは、痛みが殆どないことと、内臓への転移がないことです。最近、血圧は少しずつ下がり気味ですが、このまま穏やかに過ごせたら、と思う日々です。

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ABOUTこの記事をかいた人

某シンクタンクでフルタイム総合職のmajikoです。 2013年に長男、2016年に長女を出産。日々時間に追われるワーママですが、子どもの教育も、自分の人生も諦めたくない!と欲張りに生きています。 共働きワーママならではの視点からのブログです。少しでもお役立ちできれば。