乳癌から脳・骨髄転移。母の闘病記録

2017年8月、母が59歳で他界しました。乳癌でした。

母が病気になり、病状が安定したり悪くなったりする中で、同じような人はどのような経過をたどったのだろうかと、意味もなくネットを検索する日々。

でもネットをくまなく探しても、乳癌→脳転移→骨髄転移はあまり参考になる記事がありませんでした。

母の闘病記録をまとめることで、同じような病状の方やそのご家族にとって、少しでもお役に立てれば幸いです。

また、自分もいつまでも忘れないように…

2003年 乳癌発覚

私が高校2年の頃、母の乳癌が発覚しました。

当時、具体的なレベルまでは聞けていませんでしたが、「末期に違い中期」と聞いていました。

左胸の脇に大きなしこりがあり、子どもでも触れば「何かある」とわかるほど。

母はもっと以前から分かっていたようですが、仕事人間で、仕事が忙しいと検査を後回しにしていたため診断および治療の開始が遅くなったのです。

すぐに癌の切除手術と抗がん剤治療が始まりました。とにかく内蔵が元気な家系のようで、抗がん剤開始直後は気持ち悪そうでしたがすぐに順応。髪が抜けることにショックを覚えながらも、「傷病休暇ヤッホイ」と楽しそうに遊びまくっていました。

2010年 脳転移(脳腫瘍)

乳癌の手術後、特に再発も何もなく平和に過ごしていました。

しかし、この半年前くらいから、物忘れが多くなってきました。

同じことを何度も聞く。「今日は家でご飯食べるの?」と朝だけで3回は聞かれ、「覚えておけないからカレンダーに書いといて!」と怒られていました。

この頃、口臭がひどかったのを覚えています。脳腫瘍ができると口臭がひどくなることもあるようで。でも家族はそれには気が付かず、「虫歯?歯槽膿漏?」と話していました。

職場でも提出物や忘れ物が増え、上司の方が「これはおかしい」と「物忘れ外来」を勧めてくださり、そこでようやく受診しました。

受診の結果、若年性アルツハイマーではなく大きな6センチほどもある腫瘍が脳にできていることが分かったのです。

お医者様の学会の都合などにより、手術はその2か月後。

学会なんて…と家族としてはイライラしましたが、こればっかりはVIPでもない患者の立場からは強く言えず、手術の日を待って手術。そしてまた抗がん剤治療を行い、半年後にレーザーで小さい腫瘍を取る治療を行いました。

2012年 骨髄転移

癌の定期健診で撮った画像、脳から脊髄にかけて真っ白になっているレントゲン写真。

母はとても元気でした。

でも画像から、先生からは「あと半年ですね」とあっさりと余命宣告。

この頃私は一人目の妊娠が分かってすぐ、母は自分が自分の親にサポートしてもらったように自分が孫の面倒を見る!と張り切っていた矢先のことでした。

「癌が骨髄を埋め尽くしてしまうと、歩行不可能になります」

もう目の前が真っ白になりました。いわれた母本人はどんな気持ちだったか…想像を絶するものがあります。

この診断は大学病院でなされ、その後国立がん研究センターへ。そこで治療開始。3度目の抗がん剤。

抗がん剤で一時は毛が抜けましたが、耐性がついたのか、抗がん剤中にも関わらず髪が生えてきた時は家族で驚きました。

「余命半年なんて言った先生を見返してやる!」と息巻く母、その後の定期健診(期間は忘れました…)を受けた所、なんと骨髄の癌が消えてる!

抗がん剤が効いた?(※)

とにかくその時は喜びました。治った!と。

2015年末 骨髄転移、歩行不能

それから月日は流れ、私は4歳差の二人目妊娠中のできごと。

「なんか足がふらつく、力が入らない」

と母が言いました。

脳腫瘍、大きいものは取ったものの、耳のそばにできた腫瘍があり、これを取ろうとして下手にそばの神経を傷つけると顔面半分が麻痺する可能性があったので、取らなかったのです。この腫瘍で左耳は聞こえなくなっていたので、三半規管がうまく機能していないのだろうと思っていました。

ところが母から「足がふらつく」と言葉を聞いてからわずか2か月、下半身麻痺。

一切動かなくなりました。

尿意・便意も全く分からず、排せつもできなくなり。

急遽父が市に問い合わせ、ケアマネさんが手配されてあっと言う間に介護用ベッドや車いす、巡回看護が手配され。(ケアマネさんってすごい!と感動しました)

その後病院に行くと、消えたはずの癌が骨髄に再発。真っ白。胸のあたりから下への神経回路が癌で埋まってしまっていました。

ここから1年半、母の車椅子生活が始まりました。

幸い、上半身は自由に動いたため、趣味の書道に燃えたり孫とカルタやトランプで遊んだりと楽しくは過ごせたものの、自由に行動できなくなり、台所にも立てなくなり、不便を強いられる生活でした。

※後日調べると、抗がん剤は一時的に癌を消す作用はあるものの、その後再発させるリスクもそれなりにあるとのこと。

2017年 逝去

2016年の夏はかなりの猛暑でした。

エアコン嫌いの母はエアコンもつけずに30度の室内で過ごしていました。

自分でも体調がおかしい、と思ったのか、自分で巡回看護の事務所に連絡をしてから意識がなくなり、駆け付けた看護師さんが救急車を呼んでくださり病院へ。熱中症でした。

3週間近く入院し、退院する頃には自分で食べられるまでに快復。よかった。

ただ、この一件以降、食欲が一気に落ちてしまいました。

冬になるにつれ、「気持ち悪い」と訴えることが増えてきました。

また車椅子に座ったまま居眠りをする時間が増えてきて。

眠たいわけではないけれど、じっと下を向いて目をつむっていることが増えてきました。

食欲もどんどん減退し。

年が明けて2月、脳腫瘍がまた少しできている、とのことだったので、レーザー治療を受けました。そしてそれ以降、起き上がることができなくなっていまいました。

レーザーの後遺症として、脳がむくむことがあるらしく。母はそのむくみが取れなかったのではないか、と考えています。

食事もとれなくなり、どうしようと考えていた時、ケアマネさんから栄養剤の点滴をしましょうか、との提案。海老蔵さんの妻・麻央さんも同じように栄養剤を点滴するためのポートを胸に作っていましたが、母も手術でポートを作りました。

それ以降、在宅看護を行っている方の施設へ入所、点滴で栄養剤の注入開始。

その後2か月頃にはゼリーを一口食べられるくらいまで回復しまし、喋れる日もありましたが、眠っていることが多くなっていました。娘の歩く動画を見せてあげると、「あ、歩いてるね」と反応はできるものの、以前のようにおしゃべりな姿はなく。

「早く死にたい…」と漏らしていました。

 

その日もいつもと同じく、訪問での入浴サービスを受けていました。

血圧がいつもよりも低かった(85)以外、何も変わらず。

入浴中も「気持ちいいです」と答えていたそうです。

でも、入浴後、ベッドに寝かされ、お風呂用品の片づけが終わりいつものように点滴をさあつなごう、としたとき、

「あれ?」と。

心臓が止まっていたのでした。

その日、私は夕方に母のところに行く予定でした。昼間は出かけていました。出かけ際に携帯を見ていれば、心肺停止の電話を受け取れて、すぐに駆け付けられたのに…と今も悔やみます。

留守電に気が付いたのが2時間後。

施設に向かった時には、お風呂上りということもあり、きれいに横たわり、でもまだ温かさも残っており。

不自由な体から魂だけが抜け出して、どこか好きなところに飛んで行ってしまったかのようでした。

幸いだったのは痛みもなく内臓は全く衰えなかった

母が幸いだったのは、痛みが全く出なかったこと。

モルヒネを使って痛みを緩和したりとありますが、その必要が全くなかったです。内蔵への転移は一切なかったことも要因だと思います。

最後まで静かに、穏やかに、いつもと同じように寝ていました。

苦しむ姿を見なくてもよかったのは、家族としても幸せだったのかと思います。

内蔵もしっかりしており、尿も十分すぎるほどに出続けていました。

また栄養点滴ができていたおかげで、げっそりせず、適度にふくよかな顔で。本当によかった。

仕事に子育てに、不器用ながらも精いっぱい取り組んでいた母だからこそ、最期は安らかに逝けたのではと思っています。

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ABOUTこの記事をかいた人

某シンクタンクでフルタイム総合職のmajikoです。 2013年に長男、2016年に長女を出産。日々時間に追われるワーママですが、子どもの教育も、自分の人生も諦めたくない!と欲張りに生きています。 共働きワーママならではの視点からのブログです。少しでもお役立ちできれば。